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教科書採択の時期です!歴史教科書問題特集!学び社の反日教科書の実態 第5話 [墨田区教育委員会採択の歴史教科書は自虐史観]

01Aug2018-2.jpg今日は高句麗の広開土王の碑文の記載について自由社の「新しい歴史教科書」と極左の学び舎の「ともに学ぶ人間の歴史」と題された教科書の記載内容について比較検討してみましょうと思いましたが、学び舎の教科書には記載がありませんでした。


しかし、世界史を知る為には大変重要な内容ですのでご紹介します。


自由社の「新しい歴史教科書」48ページ上の写真等も掲載されたものです。


6世紀の前半、当時の百済は、高句麗、新羅に攻め込まれて存亡の危機にあった。


百済は再三に亘り日本に軍事援助を求めた。


百済の聖明王は日本との同盟を強固なものにする決め手として、552年に金銅の仏像と経典を大和朝廷に献上した。(仏教伝来)


東アジアの混乱を逃れて、多くの難民が一族や集団で日本に移り住み、金属器の加工、土木建築などの技術や漢字による朝廷の文書の作成にも力を発揮した。


01Aug2018-3.jpg解説しますと、ご覧の地図をご覧下さると分かると思いますが、6世紀の前半、当時の百済は、高句麗、新羅に攻め込まれて存亡の危機にあった事を示すと共に当時の倭国(日本)は高句麗に匹敵する程広大な領土を持って居た事が分かると思います。


高句麗に攻撃されて百済が倭国(日本)の大和朝廷に助けを求めた事情も理解できるのではないでしょうか。


さて、高句麗の広開土王の碑文には、倭国(日本)の軍勢が海を渡り、百済・新羅を「臣民」としたので高句麗がこれを撃退する為に兵を送ったと記載されています。


大和朝廷は高句麗と戦ったが、次第に形成が不利になり敗れて404年朝鮮半島から兵を引きました。


と言うのがこの間の歴史の流れですが、広開土王の碑文に現代の朝鮮半島情勢に通ずる内容の記載があるので余談として記載致します。


以下広開土王の碑文の抜粋を訳したものです。


三九九年百残(百済の蔑称)は自分(高句麗)の誓言に背き、倭(日本)と修好した。その為百済を警戒するために好太王は南下して平穣(壌)を巡視した。


そのとき期せずして、新羅が使者を派遣してきて好太王のもとに訴えて来て使者が言うには、「倭人がその(新羅と倭)国境に満ち、城池を潰こわし破り、新羅王である私は高句麗の民となっていますから、わたしは太王に帰順しその命に従いたいと思います」と話した。


好太王は慈悲深く、新羅の忠誠をたたえた。


そこで好太王はとくに新羅の使者に秘密の計略を授けて帰らせた。


四〇〇年好太王は将に命じて歩騎五万を遣わし、新羅を救いに行かせた。


男居城より新羅城にいたるまでのあいだには倭人が満ちていた。


官軍(高句麗軍)がつくと、倭賊は退却をはじめた。


(官軍は)倭 を追撃し任那加羅の従抜城まで追った。


この城はたちまちのうちに降服したので、新羅人にこの城を守備させた。


新羅城と塩城を攻め破り、倭寇は大敗した。


城内の新羅人の九割までが倭人について行くのを拒否し、高句麗の軍隊はまたこれらの城を新羅人に守備させた。


新羅城に居た残余の倭寇は敗走した。


また口城を占領し、同じく新羅人に守備させた。


以前、新羅王は自ら朝貢し命令に従うことはしなかったが、広開土境平安好太王が新羅を助け倭寇を撃ち破ったので新羅王はようやく自ら朝貢に来た。


と言う内容が書かれれていますが、近現代の朝鮮半島情勢と非常に似ていて、裏切りとすり寄り近隣諸国を利用しては都合の良い方に付く割に自国では防衛出来ない状況も西暦300年代から変わって居ません。


世界史の重要さはこうした歴史的な事実正確に把握する事で、現在起こっている諸問題の解決の方向性が読取れるものです。


正しい歴史を正確に学んでいますと、現在起きて居る問題や紛争の結論が出る前に先手を打って行動する事が出来ます。

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