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第2話 日本の銀行の祖!安田善次郎翁!その2 [世界の偉人の波乱万丈の人生を学ぶ]

03May2019 令和.jpgご覧の写真は安田善次郎翁が当時の東京市に寄付した墨田区横網にある旧安田庭園です。


昨日に引き続き、安田善次郎翁は新政府の紙幣と言うか現在の国債に当たる太政官札の買取で巨利を得て両替商となり次に目指したものは巨額の金額が動き、この当時は利息を付与せずに預かるだけの公金の取り扱いでした。


しかし、こうした利益の多い分野は三井、小野、島田といった有力な両替商が独占、そこへ新興の安田商店が割って入ることは困難でした。


そこで安田は、公的機関にとって最大のリスクは、預金先の金融機関が倒産してしまうことである事に気付き、安田商店はリスクヘッジの為に自社の保有する公債を担保として差し入れます。

つまり公的機関の発行する公債を担保に差出すのですから官僚は公金を安田に預け、その公金でまた公債を買い、それを担保としてまたさらに公金が集まるという所謂信用創造が行われ善次郎は更に巨額の利益を得るのです。

これにより富士銀行、第一勧業銀行は公金を扱う銀行という地位を築きます。

同時に政府から頼まれて経営不振の銀行を買取りを行い全国的に支店網を増やして行きます。

大蔵卿の松方正義は日本銀行の設立に当たり、渋沢栄一と安田善次郎を頼り政府は当初、欧米の中央銀行制度をそのまま導入しようとしますが、彼らは日本の風土に合ったものにしないと円滑な運営は望めないと主張します。

結局、松方はその意見を取り入れ、ベルギー中央銀行の組織を範としながらも、両替商の伝統の良い部分を引き継ぐ折衷方式で明治15年(1882年)10月10日日本銀行を設立します。

これ程の偉業を果たし近代日本の経済的発展に寄与した善次郎ですが、資本主義の進展に伴う都市部への人口流入と地方の疲弊と貧富の格差拡大が社会問題化して行き庶民の怒りの矛先は富める者へと向かって行きます。

大正10年(1921年)の春、83歳になっていた善次郎は「人は養生しだいで優に百歳以上に達し得るべきもので、私はこれから若返って、ますます事業を発展せしむる志である」と社員に訓示します。

しかし、同年9月28日、朝日平吾という国粋主義者の手で、これまでの社会への貢献も、その素顔も知られないまま民衆の敵として暗殺されてしまいます。

この格差社会は現在の我が国の状況と似て居るのではないでしょうか。

才能豊かな優秀な人物が民衆の敵として殺されてしまう背景には、民衆は目先の事しか見えず、物事の本質や現在の資本主義経済を理解出来ず、彼がどれ程社会貢献したかも知らない無知が起こした罪かも知れません。


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