大瀬家のご先祖ゆかりの地三戸で鎌倉時代の地頭大瀬二郎の足跡をさぐる! [墨田オンブズマン大瀬康介の行動力]
5日の企画総務委員会の視察が終了後僅かながら時間がございましたので、先祖から代々伝えられた大瀬家記に記載されている鎌倉殿から三戸を賜ったと伝えられる大瀬二郎の足跡を訪ねてみました。
ご覧の三戸城に現在ある三戸歴史民俗資料館をご訪問させていただきますと、学芸員の方が「三戸史」を見せて下さいました。
その「三戸史」上巻の54ページから74ページかけて「鎌倉時代末頃に、糟部を管理しいた地頭代職は、三戸では横溝新五朗、会田四郎三郎、大瀬二郎であった」書かれていました。
三戸町教育委員会事務局の文化財保護班の班長さんが来て下さり、当時の三戸は現在よりも広く、鎌倉時代には南部氏はいなかったそうで、三戸の伝承と大瀬家の伝承と一致しています。
大瀬家は清和天皇(せいわてんのう)をルーツとする清和源氏となり、後醍醐天皇に仕えた武将で鎌倉右大臣(源実朝(みなもとのさねとも))から大瀬の家名と家紋の三ッ木瓜と三戸を賜ったという記載があり地頭(領主)だった様です。
越前以降の部分から家紋までの部分は筆くずし字のため私には読み取れませんので、お詳しい方がいらしたら教えて戴ければ幸甚です。
班長さんが丁度今本丸の発掘しているとおっしゃるのでこれも何かの因縁かも知れませんので発掘現場を視察させていただきました。
本丸を守る為に作られた土塁は当時はご覧の石で組み上げられた城壁があった事を示しているそうで、実際には更に高かったと思われます。
この部分は土塁ですが、山城ですのでこの先は急な斜面になっており難攻不落の山城である事を伺わせます。
これは欅御門後の礎石と思われる石で、これは12キロも先の山から運ばれたそうで、どうやって運んだのか分からないそうで、これも研究対象なのだそうです。
これは位置から考えて本丸御殿を警備する武者溜の跡だと思われる場所だそうです。
将来的に発掘後、土塁や城壁、欅門を復元して観光資源として活用されるそうで、町議の方ともお会いする事が出来ました。
一刻も早く復元される事を望みますし、これだけの文化遺産がそのまま残されている事は素晴らしい事ではないでしょうか。