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皆様に福、徳、寿などを与える七福神のご利益を!隅田川七福神の歴史を知ろう! [日本文化]

20180104-1.jpg元旦から七草までの間に七つの福徳神を祀る寺社を巡る隅田川七福神巡りは、江戸時代から始まった開運を祈る行事です。


隅田川七福神の始まりは、文化元年に佐原鞠塢らの文人達が福禄寿にちなんだ正月の楽しみ事は無いかと話し合った結果、七福神巡りを考案した事が切っ掛けの様です。


そこで質問です。


都内に様々な七福神巡りがございますが、その発祥は誰だったのでしょうか。


それは、上野にある寛永寺の開祖天海大僧正が家康公に対し「公はこの乱世を治め、天下泰平の基を築く福徳を備えている」と述べ、七福神のもつ七つの福徳を書いて示したのです。


20180104-2.jpg家康公はこれを見て大いに喜び、すぐに狩野探幽(かのうたんゆう)に命じてご覧の様な伝七福神の画を描かせこれが今の七福神画の基になりました。


それでは七福神をご紹介しましょう。


寿老人様は、白髪の円満なお顔の老人で、よく傍に鶴と鹿が描かれ、この神様は南極星が神格化された神様で、人の寿命を司どるので寿星とも呼ばれ長寿を表しています。


福禄寿様は、長い頭をした老人で、杖をもっています。頭が長く長頭は人望をあらわすとされ、この神様も同様に南極星が神格化された人望を表す神様なのです。


恵比寿様は、大黒天すなわち大国主命(おおくにぬしのみこと)の子、事代主命(ことしろぬしのみこと)だといわれ、このため恵比寿・大黒といってこの二神を並べて祀れあれます。


この恵比寿は裸に近い格好で鯛を抱え、おおらかにほほえむお姿で、まさに足ることを知った無欲な神様で、天海大僧正もよく引用された古歌「事たらば足るにまかせてことたらす、足らずことたる身こそ安けれ」の一首は正にこの神様の心を詠んだ歌です。


この知足の心は素直で正直な心から生れるので、この神様は正直の真をあらわすとされます。


布袋様は、契此(けいし)という中国の実在のお坊さんで、いつも杖と袋をもっていたのでこの名で呼ばれました。


後には辞世の文句から弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身として崇められ、その大変大きなお腹から度量の広い大量の神様ともされました。


毘沙門天は、多聞天(たもんてん)とも呼ばれ、もともと帝釈天(たいしゃくてん)の四天王の一人ですが、その武装したお姿から威光をあらわす神様と考えられ、戦国の武将武田信玄は毘沙門天の幟を掲げ戦いました。


大黒天は、もともとは武力の神でしたが、後にインドのお寺の台所に祀られ、毎日油で身体を拭われたため、真黒になったので大黒天と呼ばれたそうです。


わが国では大黒は大国に通じることから大国主命と同じ神とされ、更に物を司どる大物主命(おおものぬしのみこと)とも同体だと考えられたため、財富をあらわす神様とされたそうです。


辨財天は、もともとインドの河の神で、河川のせせらぎから音楽、芸能を、また「水を治める者は国を治む」ということから武力、そして河川は肥沃な土地を造り生産物を生むことから財富を司どる神様ともされています。


また同時にその優しいお顔やお姿から愛敬をあらわす神様とも考えられた様です。


今年も当ブログご愛読の皆様に七福神のお恵みがありますようにお祈り致します。

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