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激戦の島ペリリュー島!地下に眠る英霊との出会い!第70話 地下の世界へご案内! [私はこうして起業した!40年で総資産5億円超に!]

05Aug2021-2.jpg激戦の島ペリリュー島の本当の戦場は、ご覧の戦闘豪の中にある地下には、普段我々が見る事の出来ない闇の中に入って行くと別世界が現れました。


日米合同の遺骨収集は、当時の日本軍は中川州男守備隊長の号令の下に、持久戦に備えた強固な陣地を築いており、島全体が強固な要塞と化しており、硬い隆起サンゴ礁の化石である岩を掘る事は大変だったと思われます。


その硬い岩をつるはしや石のみ等で削り、洞窟を作り陣地を構築し、敵の攻撃を受けても内部で移動し敵の意表を突く方向から攻撃出来る様に作られていました。


当時の米軍はこんな小さな島は3日で落とせると考えていたそうですが、結果的に制圧に70日以上かかってしまいました。


当時の日本軍がこの島を戦場とした理由は、滑走路がある事、小高い山のあちらこちらに天然の鍾乳洞が無数にあり、陣地を構築し易かったと考えられます。


05Aug2021-1.jpgご覧の写真は、昨日の当ブログのトップにある当時の様子を写した写真の左上中央にある山の中に、小学校の体育館の半分位の広さと、天井まで5メートル位の蒲鉾状の天井がコンクリートで作られた地下格納庫内です。


内部にはトロッコ列車や砲弾を運ぶ為の馬車の様なものがあり、木で作られていた部分は朽ち果てていました。


当時は、ここに戦車や車両、弾薬や食料が保存されていたと思われます。


当時の日本軍の中川州男守備隊長は、現地のパラオの人々がここで一緒に戦いたいと申し出た事に対して、君達とは戦えないから帰れと怒鳴り付けたそうです。


中川守備隊長は、ここが激戦の場所になり、守備隊が全滅する事を予想していたそうで、現地の島民を守る為にコロール島へ疎開させたのです。


ここまでパラオの人々に日本人は信頼された背景には、パラオの人々はオランダとスペインの植民地として、過酷な労働と搾取に苦しんでいましたが、日本の統治領になると、インフラを整備し学校を立て教育し、パラオの人々が独立出来る様にその基盤を作っていたのです。


この事を日本のマスコミも、学校の教育も教えていないのは、アメリカの占領政策で、日本人に東京裁判史観を植え付ける為に、良い事をして来た事は隠され、贖罪意識を持たせる為にマスコミや教育を統制して来たからです。


05Aug2021-3.jpg戦闘豪の内部を一づっ丁寧に捜索していると、内部で自決されたと思われる英霊の遺骨が見つかりました。


この御遺骨は、後頭部を銃で撃ち抜かれ即死しており、恐らく何らかの重篤の負傷をしてしまい、隣の頭蓋骨の戦友とと共に自決された様です。


付近に弾薬の入った革製のケースがあり中を見るとは、実弾が10発しか残っていませんでした。


丁寧に御遺骨を収取させていただき、綺麗な水で洗い清めて、日本へ帰るまで我々の宿の中にご安置させていただき、夜になると英霊を囲んで軍歌を歌い、お酒を一緒に飲みました。


この時、何故かその場に居た全員がとても楽しく英霊と共に過ごせた事を幸せに感じました。


宿と言っても現地の方の家の一部をお借りした場所ですので、英霊の遺骨と共にその場で雑魚寝でしたが、誰もが怖いとかを感じる者はおらず、ご一緒できた事を嬉しく感じました。


次回71話は、「亡霊が現れる」をお送り致します。

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